fujitmi’s blog~地球を抱く〜

こんにちは、藤堂ゆきおです。普段はなろうとカクヨムさんで小説書いてます。興味ある事を書くだけの日記。

傷つけられた時の対処法。すぐに忘れられる方法。

 

 人間をやっているとどうしても行き交う言葉や向けられた言葉に傷ついてしまいますよね。世界には素敵な言葉が沢山あるはずなのに、簡単に苦しくなるのなら、簡単に暖かくなる事だって出来るやです。

  また逆も然りで、自己防衛が強すぎて人を傷つけるような言葉を吐いてしまうという人もいると思います。

どちらも共通して奥底には「恐怖」が潜んでいます。

 正論や意見を言われると「ズキッ」と心が痛んでしまった経験はありませんか?相手に否定されたような、自分が今まで信じていた事が違うと言われてしまったような。そうなるとずっとその言葉が頭から離れず、モヤモヤしてしまいますよね。

 実は正論が全て「正」ではないのです。例えば自分が「赤」が好きで、誰にも迷惑をかけていない場面で赤い服を着ていた場合、相手が「その赤い服変だよ」と言われたら相手が正しくて私は変なんじゃないかと思ってしまいます。

だけどそれは相手の「正」ではあるのだけれど、それはこちらが「楽しくなる言葉」ではありません。このように、こちらの「楽しい」を否定するような言葉は、向こうが「楽しくない正」を押し付けてるに過ぎないのです。

 ということは相手と同じ「楽しくない正」を信じるか、「自分の楽しいこと」を信じるか、どっちが楽だと思いますか?

 相手に正論を押し付けたい人は、実は誰よりも褒められたい人なのです。「私はこう思ってる」「私の意見が正しいのだから尊敬して」という気持ちが大きいと思います。

ですが、そんなもの3ミリぽっちの正論なのです。だって世界に何億もいる人口の中で、自分の正論なんて3ミリ程のものなのですから。

 それで題名に戻りますがそうやって言われてしまった場合に「ズキッ」と傷ついて、頭でわかっていてもどうしようもなくなってしまいますよね。相手に反撃、言い返してやりたい気持ちが強いと思います。でもそれはしない方が、精神的に気持ちよく過ごせます。

 脳は、主語がないと吐いた言葉を自分のことだと受け取ってしまう癖があるのです。だから、相手に言われたら言い返さずに「あの人の意見は、本当の自分じゃない」「あの人がそう思ってても、自分はこれが好きなんだからいいんだ」「自分はサイコー」でも何でもいいから肯定の言葉をあげてください。

 そうしたらいつの間にか、相手の言葉がどうでもよくなってきますから。

 

 言ってる相手は「ため息」をしているようなものです。相手の「ため息」で真剣に悩んでたら損じゃないですか。

そして、自分が楽しく過ごしていると、相手の楽しいことややさしい言葉に注目していくようになります。そうすれば幸せが循環していくのです。

 

 「ズキッ」としてもいいんです。その「ズキッ」は、あなたが今後人生で誰かに「ズキッ」を与えないようにするために、大事な通過儀礼なのです。もう大丈夫なので、自分に優しく、かわいがってあげましょう。

 

そうすれば、「楽しい」の輪が広がっていきますから。

 

 

 

 

 

真面目だね、言ってる側の方が真面目説

人生において、真面目だねーというセリフは何回も言われてきました。

しかし真面目だねと言われても一向にしっくりこず、単に常識的な事をして、思いやりある行動をとっていると真面目に思われるらしい。

夜遊びとかも徹夜でオールも、お酒いっぱい飲んで羽目を外した事もあります。今はありませんが若気の至りで一夜限りを過ごした事もあります。

 

タイトルに戻りますが、真面目だけど悪ぶってる不良タイプの人ほど相手に真面目だね、と言います。

逆に遊び心あるタイプはあまり言いません。真面目な所もある、は言いますけど。それをギャップとして受け止めてくれるはずです。

真面目か不真面目かで人を決めつける人は結構遊び心とか語彙力がなくて、返ってその人こそ真面目だったりするかもしれません。

相手にわざわざその点だけをピックアップして告げるということは、その人自身がわざとちゃらんぽらんとしてる人が多いです。

 

相槌のように言っている人は、本当に考えてない人ですけどね。相手にあまり興味がない人でしょう。

なので真面目だねと言われたら、あなたも真面目に見えますねと言ったら相手の反応でその人が分かります。えーと言ったら、多分ちゃらんぽらんに見られたい人。ありがとうと言ったらその人は単に褒めてくれた素敵な人なので大事にしましょう。

「良い人」であるのを止めた。

ふと力尽きて「良い人」であるのを止めました。

誰かの偏った、ほんのちっぽけな良い人像。

彼らにとって都合いいだけの良い人像。

そんな風に生きてても何も楽しくない。

 

僕は親が嫌いだし、成した事は許していますしこれからも育ててくれた恩として親孝行はするつもりですが親が嫌いなままだっていい。

そして嫌われたっていい。

好かれようとすると、飾り立てすぎて本来の自分が何だったか分からなくなる。都合いい「良い人」として見ようとして、それに当て嵌まらなかったら関係を切るなんて人は、こちらから願い下げだ。

悪い所も良い所もあるのが人間で、それが個性なんだ。僕は凸凹な人間で歪みだらけで、しかも歪んだものや醜いものが美しく感じる。それはそれでいい。

人に好かれなくても、自分の中での行いが良ければいいのではないか。人基準ではなく、自分基準にして生きよう。

自分像は自分が一番知っている。自分の欠点や至らない所を知って、それも愛することが出来れば誰よりも素敵に磨けるのかもしれない。

人生は冒険だった。

人生について色々考えて、多くの人の悲しみや喜びを目にしてきた。だけど問いかけても問いかけても答えは出てこない。

人生は冒険だった。

だから答えは自分一つしかない。誰かの答えでは納得できないのは当たり前だ。

自分の目で見て触れて確かめなくては人生は面白くない。

 

過去の人生、記憶はたった一つの自分の地図だ。

これから空白の地図に、どんな綺麗なものを描いてどんな道を描くのかも、自分の好きに出来る。

デコボコの道でも後から振り返れば面白い道かもしれない。次に進む時はきっと笑いながら進める事だろう。

毎日何か地図に付け加えよう。自分なりの解釈で。

 

Wonderful life is a jorney

 

 

傷ついた分だけ人に優しくなる。

傷ついたり非難を浴びたりしても、自分を失くしたりする必要はない。

大切なのはそれを自分の中に昇華させ、受け止める事だ。逃げずに呑み込んでいけばいつかは強くなれる。

 

僕はまだまだ未熟な人間だ。

だけどこんな自分の傍にいてくれる人間には優しくして、感謝をしたいと思った。

そしてそんな人達にはとびきり優しく出来る人間になりたい。

 

愛情にも優しさにも、怒りにも面と向かって向き合おう。そんな風に日々を頑張って生きてみたい。そしていつか誰かの役に立てればいい。

シェイプ・オブ・ウォーター観て泣きました。

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パンズラビリンスでお馴染み、ギレルモ・デル・トロ監督のシェイプ・オブ・ウォーターを観ました。以下ネタバレ含む感想になるので閲覧にはご注意下さい。

 

 

 

始まりから引き込まれました。舞台は50年代のアメリカ、ロシアと仲が悪かった時代。そして差別の酷かった時代。全体を通してお伽噺、詩的な映画だと思いました。

 この作品には喋らない人物が沢山出てきます。

まずは声が出せないイライザ、それからその親友のゼルダの無口な夫、そしてイライザと恋に落ちる不思議な生物(ここでは“彼”とします)、最後は両手使わずに用を足すリチャード(彼の場合は最終的にです)

 ゼルダは終始イライザに、無口で何もしない夫を愚痴ります。世話をしても、ありがとうの一言もない夫。

ゼルダはイライザが話せない代わりに、沢山話しかけてあげているのかなと思いました。ゼルダにとっての“彼”という存在がイライザだったのではないでしょうか。だからリチャードが脅しにきた時に、今まで無口だった夫に「あなたには分かりっこない」と言いました。

この作品の終わりの詩が全てを物語るように、これは色々な愛の形を描いた作品です。それも、相手から何も与えられなくとも、勝手に存在を感じる愛。これこそが本当の愛だとこの作品は言っています。

 例えばリチャードがイライザに対して抱いた愛は愛欲で、これは明らかにイライザに対して求めており、同時に自分の欲や我儘を押し付けてもいます。

そしてイライザの場合は“彼”に対して何も求めず、また“彼”もイライザに何も求めず、純粋に傍にいて癒やされる、楽しいといった心で感じる愛情です。

また、ジャイルズ(絵描き)がイライザに対して抱く愛は、恋愛ではないですが人間愛を感じさせます。しかしジャイルズの場合は必要とされたい、孤独を癒やしてほしいという渇きが根底にあります。ダイナーの店員に手を繋いだ時にも、自分を認めて愛して欲しい、分かって欲しいという受け身の愛だという事が分かります。

 この話の語り口はジャイルズなので、ジャイルズは最後の最後に、イライザ達の愛の形を見て愛とは何なのかを学びます。

そしてその愛の姿を見て、純粋に彼らの幸せを信じているのです。最後にジャイルズもまた、存在を感じるだけの愛を見つけたのではないでしょうか。

 

 日常のちょっとした笑いを交えていたので、肩も凝らずに観られました。愛について、考えさせられるというよりは教えられたような感覚です。お伽噺、ファンタジーに皮肉や社会情勢を交えて描くのはこの監督お馴染みですね。

ギレルモ・デル・トロ監督の新作映画も公開中なのでチェックしてみたいです。今回はお伽噺と現実とホラーが混ざったような物語です。楽しみです。「スケアリーストーリーズ 怖い本」動画の広告を貼りますので、是非チェックしてみて下さい。

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https://youtu.be/P9wrK2FsJuA

 

 

 

濃い闇を見れば、薄い光でもとんでもない輝きに思える。

今日は雨が降っております。雨の日に家の中にいて何もせずに雨音を聴く時間が好きです。

 

孤独や失敗、トラウマは人生において足を引っ張りかねない枷になります。大なり小なり、誰にでも起こる事で、誰にでも深い心の奥底には暗い影を持っていると思います。

しかし、濃い影を知っていれば、そこに薄い光が差し込んだ時、誰よりも早く気付く事が出来るものだと思います。

薄い光は、小さな幸せです。例えば、誰かがしてくれた事、傍にいてくれる事、優しさやあなたを思う厳しさ。なので濃い影から目を背けなくてもいいのです。

心がけ次第で、目を背けていたものが素敵なものに変わると思います。自分から暮らしに寄り添いながら、自分の在り方を常に考える事は大事です。自分を叩いたり、責める必要はありません。その傷は、与えるものを受け取って反応をしてしまっただけです。

薄い光に気付けるように毎日ほんの少しの幸せを見つけてみましょう。

 

自己啓発みたいになってしまいました。私の当面の目標は傍にいてくれる方や物を大切に目を向ける事です。読者の方も然り、全て自分の日常ですから大事にしたいです。いつもありがとうございます。